非暴力と暴力の定義

NVC(Non violent communication/非暴力コミュニケーション)を学び始めて、芽生えた疑問が「暴力ってなに?」ということ。


暴力を定義しないで、非暴力を名乗るなんて、なんという理論の欠陥なんだろう。

そう思っていました。


しかし、2018.4.28-29で行われた、ミンデル夫妻のセミナーに出て私なりの結論に到達しました。


場で、語られたストーリーがある。


モーセが宇宙と繋がり、スピリットや啓示を受取る。

するとモーセは、その啓示を「十戒」として文字に刻む。


それを聞いた人々は、文字としての「十戒」を尊重するようになる。


その時、スピリット・啓示としての本質は薄れてしまう。

文字を正しいものとして、ルールを守ることだけが残っていく。


同じことは、仏教でも、イスラム教でもあらゆる宗教・哲学・思想で起きてしまう。


やがて言葉遊びが起きる。

暴力と、非暴力の二項対立・・・・誤った暴力と、正しい非暴力の争い。


そこにスピリット・啓示はすでにない。


なので、マーシャルはあえて、暴力を定義しなかった。


暴力の概念が、関係性や時代によって移ろいゆくから、なおさら。


古代、雨を乞うために、生贄を神に捧げた。

生贄は、神と繋がることを喜んで、犠牲となっていたかもしれない。

であれば、生贄となる本人自体も、喜びの中に居て、暴力とは呼べなくなる。


でも、今の現代社会に生きる私たちは、それは暴力だと断定してしまう。


セクハラ・パワハラ・マタハラ・・・・しばらく前にはなかった言葉。

犠牲になる人々がいたとしても、表現されず、無いことになっていた。

最近になってようやく、それらが暴力の一つとして取り扱われるようになった。


つまり、暴力の概念は、時代と共に・関係性において変わっていく。

だからなおさら定義ができない。


そして、悲しいことに、わたしたちは、自分に対してとても暴力的になる。

自己否定・反省・拒絶・・・・ありとあらゆる暴力を自分に振るう。


自己承認と、他者との関係性・・・・これについては、また改めて稿を起します。


記憶の湖

これまでに出会ってきた多くの人たちから影響を受け続け、そしてそんな人たちと過ごした時間の記憶の集合体のようになって今の僕があるのかもしれないと考えることがある。 「パイロットフィッシュ」大崎善生

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